| 沈黙の中の真実 |
ふわりと、心地よい風が頬を撫でる。 春の風はどこまでも眠気を誘う魔の風だ。 「・・・う〜、眠い・・・」 「陛下、次はこの決算書類にサインを」 「あー・・・うん」 真っ白い紙面にずらりと並べられた文字の羅列。 見ているだけで眠くなりそうなのを欠伸を噛み殺すことでやり過ごし、ユーリはインク壺に羽ペンを浸す。 「えーっと、今回の予算案のやつか。・・・あれ?商業区の予算、少なくない?」 「それなのですが、商業区の調査隊からの報告によると前回までの予算がだいぶ残っているようなのです。昨年の商業区による大市が大繁盛したのが理由だとは思いますが、今年度の予算では昨年まで少々予算の足りていない産業区や軍の施設費用へ分配した方がよろしいかと」 指摘された箇所に視線を移動させつつ、ユーリは首を捻る。 「そうだな・・・。いや、ちょっと待って。確か去年の雨期にシュピッツヴェーグ領の西部で大きな被害が出てたよな?あっちの補修作業と作物の収穫状況ってどうなってた?」 「それなら先日私の部下に視察させたところ、補修作業の方は滞りなく完了したとのことだ。だが、収穫の方はやはり追いついてはいないようだな。納税にも多少影響が出ている」 先に答えた王佐であるフォンクライスト卿ギュンターに代わり、己の執務机に腰掛けたままのフォンヴォルテール卿グウェンダルが落ち着いた声で答える。 ふむ、と頷いたユーリは、手にある紙面の下にある署名部分に自分の名を綴り、その下にシュピッツヴェーグ領主への予算の引き上げを知らせる一言、そしてもう一度目を通してからギュンターへと書類を差し出す。 「おれの判断としてはこの方がいいかと思うんだけど。あぁ、もちろん産業区と軍の費用にもある程度分配して?今年は軍部際があるから費用がかかるし」 「わかりました。では、シュピッツヴェーグ領にはそう白鳩便で知らせを送りましょう」 「よろしく、ギュンター」 「失礼します」 軽いノックの音と共に開かれる執務室の扉。 すばやく身を滑り込ませたその人物は、この場にいる誰もが信頼を置く者。 とくにユーリにとっては最も安らぎを与えてくれる、唯一絶対の人だ。 「もう一刻半も過ぎてますよ。そろそろ休憩にしませんか?」 「コンラッド!するするっ、もうおれ集中力切れ気味だったんだよ」 紅茶の匂いと香ばしい焼き菓子の匂いに鼻を鳴らし、ユーリはぐっと背を伸ばして椅子から立ち上がった。 まるで子犬が喜び勇んで尻尾を振っているような様子に、コンラッドは顔を綻ばせたままグウェンダルへ視線を向ける。 その目は「いい?」と問いかけていて、問われた人物はひっそりと吐息を零すと肩を竦めて見せた。 この小さき王は、それはもう初めの頃は何も知らなくて、けれど主張だけは一丁前で。 だのに執務は放り出す、ギュンターの授業は脱走するなど、問題児にもほどがあった。 だが。 「・・・何だ?」 グウェンダルはどこか意味ありげに見つめてくるすぐ下の弟に眉間の皺を深める。 ユーリにカップを手渡し、口に付いた食べ葛を丁寧に取ってやっていたコンラッドはグウェンダルの問いに目を眇め、ゆるりと首を振って。 「いや、感慨深げに見ていたからね」 「別に見てはいない」 「そう?俺にはそう見えなかったけど」 「なになに?何を見てたんだよ、グウェンダル」 きょとんと目を瞬かせたユーリが興味深々で二人を見つめてくるが、グウェンダルの渋い表情にコンラッドがくすくすと声を立てて笑い、ユーリの滑らかな髪に指を滑らせた。 「何でもありませんよ。ただグウェンダルが意味深な目で俺を見てるから、ちょっとね」 「うん?・・・って、もしかしてグウェンダル・・・そういう趣味が・・・?」 「断じて無い!!どこかの馬鹿と一緒にしてもらっては困るっっ」 「どこかの馬鹿・・・」 「うーん、報われないなぁヨザ」 呆気に取られるユーリの傍ら、コンラッドは苦笑を滲ませた声で窓の外へと視線を投げる。 そこに広がる空は、無常にも真っ青な青空だけが広がっていた。 それで? ユーリが寝静まった夜、訪れた客人を室内に招き入れたコンラッドは、昼の出来事を再度口に上らせた。 昼間と違い――だが眉間の皺は相変わらずだ――強い拒絶を見せないグウェンダルは手に持っていた酒火を手渡す。 「来た早々にまたその話か。お前もつくづく執念深い男だな」 「見ていたのがユーリじゃなければ、俺だってこんなに執念深くはならないよ」 「嫉妬深い男は嫌われるぞ」 「ご忠告だけ受け取っておくよ。今のところ、それはないから平気だけど」 ちらりと視線を寝室の扉に向けたコンラッドに、グウェンダルは聞かなくてもそこに誰がいるのかを知る。 「来てるのか?」 「あぁ、先ほど眠られたばかりだよ。よほど疲れておいでのようだった」 ちらりと視線を寄越してきた弟にやれやれと首を振り、グウェンダルは促されるまま中央に設置されている応接用椅子へと腰掛けた。 窓からは宵闇を切り裂くように月の光が室内へと濃い影を落としている。 「・・・もうあれから10年以上経つのだな」 「え?」 「やつが王位に就いてからだ」 棚からグラスを二個と、ちょっとした摘めるものを手に近寄ってきたコンラッドに、グウェンダルはそう話を切り出す。 暫し意味を取りかねていたコンラッドだったが、すぐに納得して穏やかな笑みを浮かべた。 「なるほどね。それでユーリを見てたんだ?」 「まぁ・・・何とはなしに、な。お前はいなかったからわからなかっただろうが、今日の予算案全てユーリはこちらに意見を求めるのみで昔のように解らないと書面を預けてくることをしなかった」 それは当然と言えば当然のこと。 だが、今まで彼の王はそれが出来なかった。 そう、したくても出来なかったのだ。 様々な知識や経験、時間がそれを彼に許さなかった。 外のことは家臣に任せればいいものを、ユーリは自らが動かなければ納得しない。 そのせいで、経験は積まれても知識だけはどうにも吸収するのに時間が掛かった。 「10年と言う月日は、彼に平穏だけを与えてはくれなかった。俺自身が言えることではないとわかっているけれど、それでもユーリは良くここまで頑張ってくれていると思ってるよ」 「そうだな。今では歴代の王に勝る国王だと、誰もが認めている。――だからコンラート」 一呼吸置いてコンラッドを見つめたグウェンダルは、最高に渋い顔を浮かべて背後の扉を指差し。 「少しは状況を考えて事に及ぶよう努めて欲しいものだな」 それは扉の向こうで、彼が来る前にどんなことが行われていたかを暗に示していて。 「おや、ばれてた?」 「ばれてた?じゃない!!今日だってあんな腰押さえて眠そうにしてれば誰だって気づくだろうが!」 「ギュンターもヴォルフラムも気づいてないけど」 「やつらを一緒にするな・・・っ」 肩を落とす兄に苦笑を浮かべ、テーブルに置かれたグラスに受け取ったばかりの酒火注いで差し出す。 引っ手繰るように受け取ったグウェンダルはそれを一気に咽喉の奥へと流し入れた。 空いたグラスに再び注ぎ、自分の前にあるグラスにも手酌で注ぐと持ち上げてかつん、と打ち合わせる。 「もちろん解ってるさ。あの人に負担を掛けるような事は極力したくないからね。けれど、求められれば応えるのは当たり前だし、嬉しいと思うのも当然だろう?」 グラスを傾けたコンラッドは、そこにいない人物を思いながら口の端に笑みを浮かべる。 それでなくても国王である彼は執務に忙しく、本来ならば手の届かない高嶺の花だ。 その彼が、自分を好きだと言ってくれた。 それだけでなく、夜を共にする事を望み、その体を自分のためだけに開いてくれる。 それがどれだけ大罪で、そしてどれほどこの身を喜び震わせるか。 「グウェンダルの危惧も、十二分に解ってるつもりだ。こんなことが十貴族にでも知られれば陛下の体裁が悪くなる。貴族の高貴な女性ならともかくも、俺のように地位もなくしかも男となれば、無駄に吹聴されるのは目に見えてる。だからこそせめて、夜だけは彼の傍にいてあげたいんだ。それが彼の望みだから」 「奴の望み・・・?」 僅かに目を見開いたグウェンダルに、コンラッドはどこか寂しそうに微笑んだ。 「王は孤独だ。俺は護衛として四六時中傍にいても、決して同じ位置には立てない。どんなに辛くても表に出すことは許されず、明るく振舞っていなくちゃならないユーリを支えてやることが出来ない。それは全て王と言う肩書きがあるからこそだ。・・・だったら、王と言う肩書きが外されたプライベートくらい、"ユーリ"と言う一個人の甘えを許してもいいと思わないか?」 10年と言う月日の分、確かに彼は成長した。 したけれども、まだ実年齢は魔族としては人に頼って然るべき歳。 成長期のままのユーリの心は、ふとした時に不安定さを現す。 その兆候が、昨夜からユーリに現れていた。 「そんな気配は伺えなかったが・・・」 「そりゃぁ、執務中には表に出さないだろう?彼は場を弁えてるからね」 くいっと飲み干したグラスをテーブルに置き、「ちょっと失礼」と断りを入れてから立ち上がると寝室へ続く扉へ向かう。 静かに扉を開けたコンラッドは、中の様子を見てすぐにその身を滑り込ませた。 僅かに開いた扉の向こうから聞こえる声に、グウェンダルが眉根を寄せる。 二人分の声が暫し途切れ気味に響いてきたが、数十分もするとコンラッドが扉から出てきた。 「済まない、グウェン」 「いや、構わないが・・・。何か、あったのか?」 「夢見が悪くて目を覚ましただけだよ」 緩く頭を振って大した事じゃないと言う弟に、グウェンダルは目を眇め。 「・・・そうか」 一言だけ返して残った酒を煽った。 彼が何も言わないのなら、こちらが余計な口を挟むべきではない。 だから、彼が大した事じゃないと言った時にひっそりと握り拳を震わせた事には気付かぬふりをする。 「夜も遅いな、そろそろ失礼する」 「・・・悪い、グウェンダル」 「お前が謝る道理はないだろう?私は何も知らないのだからな。・・・傍にいて差し上げろ」 「ありがとう」 扉へ向かうグウェンダルにコンラッドも続き、彼より先に扉へと手を掛ける。 「明日は急ぎの書類もないから、久方ぶりに国境沿いの村にでも言って来い」 「それは様子を見て来いと言う指令?」 「陛下の国境検分だ。・・・お忍びのな」 「りょーかい」 わざと付け足された言葉に笑みを零すと、コンラッドは頷く。 そんな弟の様子を見つめながら、不思議なものだとグウェンダルは思った。 あれほど距離を取っていた弟と、まさかこうして酒を酌み交わす仲に成り得るとは、ユーリが来る前までは想像もつかなかったのだから。 「それじゃぁ、おやすみ」 「あぁ」 軽い挨拶と共に別れ、コンラッドは兄の背が廊下の角へ消えるのを見送ってから扉を閉めた。 それからすぐに、寝室へと戻りベッドの膨らみへと近寄る。 そっと持ち上げたシーツの中、小さく丸まるように体を縮こませて眠るユーリの頬には、涙の軌跡が。 「泣かないで、ユーリ」 眠りながらも零れ落ちるそれに、コンラッドは唇を寄せる。 微かに震え、緩やかに開かれた瞼のその奥に、光はない。 「ここにいるよ。・・・分かる?」 左手で頭を引き寄せ、右手でシーツの波間に投げ出された掌を包み込む。 落涙は留まる事を知らないかのごとくシーツを濡らし、白い頬を滑り落ちた。 「コンラッド・・・」 「そう、分かるね?だから安心してお休み。明日の朝には元通りに治ってるから、大丈夫」 光を失った瞼を癒すように唇で触れ、口付ける。 包み込んだ掌が、縋るようにコンラッドの手を握り締めてきた。 どこか遠慮がちに、けれど力強く。 震える手を押さえ込むように、コンラッドは握り返す。 「愛してる、ユーリ・・・」 春風は、明日も君に届くから。 そしたら、またあなたの笑顔を見せてほしい。 |