Vergessenheit [フェアゲッセンハイト]
*side-Y*



 忘れると言うこと。それは、大切な記憶全てがなくなるということ。

 忘れられると言うこと。それは、自分の存在理由を相手に認めてもらえないこと。

 もし大切な人に自分の全てを忘れられてしまったら・・・あなたはどうする?






「ぷはぁっ」
「おっかえりなさーい、坊ちゃん。」
「あれ?今日はグリ江ちゃんがお迎え役?」
 ざばざばと水を掻き分け、ユーリは湖の岸へと辿り着く。
 タオルを広げて待っていたお庭番に近寄ると、冷えた体を包み込まれた。
「ちょーっと今日は皆さん忙しいらしくてですね。と言うか、ちょうどよく俺が近くにいたんで行けとご命令を受けました。隊長じゃなくてがっかりさせてしまったかしらん?」
 ちゃめっけたっぷりにウインクされ、ぶんぶんと勢いよく首を振る。
「いやいやっすっげー嬉しいよ!グリ江ちゃんに会うのも久しぶりだもんなー。今までは何処に?」
「えーと、眞魔国の東の端っこへ視察に。あとシマロンの様子を見に行って、カロリアの復興の進行具合を見て、カヴァルゲートで温泉浸かって、昨日城下に着いたんです。」
「カロリア、どうだった?フリンさん頑張ってるだろ。」
「そりゃぁもう。あの女性は逞しいですよー。グリ江負けちゃいそうっ」
 くにゃんと腰をくねらせるヨザックに引き攣り笑いを浮かべつつ、ユーリは濡れた髪を体に巻きつけたタオルでガシガシと拭う。
 空を見上げればまだ昼前なのか、中天まで太陽は昇りきってはいなかった。
「森の外に馬を待たせてあります。タンデムになりますけど、ご無礼を。」
「何を今更。こちらこそ足手まといにならないように頑張ります。」
 ぺこん、とお辞儀をして、頭を上げた瞬間に二人で噴出す。
 笑い声も高らかに、二人は森の外へと足を進めた。






 城下を通り抜け、城が目の前に見えてきた頃。
 空中を飛び交う白い物体にヨザックは馬の足を止めた。
「白鳩便・・・?」
「ヨザックの鳩だよな、あれ。」
 腕を頭上に伸ばせば、その腕にバサッと降り立つ白い鳩。
 首に下げられた入れ物から小さく折りたたまれた紙を取り出し、さっと広げて素早く目を通す。
「・・・・・・」
「ヨザック・・・?」
 黙ったまま目だけを動かすヨザックは、読み進めていくうちにだんだんと表情を険しくしていった。
 傍で見ていたユーリも、その様子に何かしら良くないことが起こった事を悟る。
「・・・・・・・・・、坊ちゃん」
 読み終わったものをぐしゃっと握りつぶすと、低く地を這うような声でユーリを呼んだ。
 返事をする代わりに、ヨザックの服の裾を掴んでいる手に力を込める。
「血盟城に着いたら決して俺から離れないで下さい。・・・いいですね?」
「何か、あったのか?」
「ええ、とんでもなく良くないことがね。だから絶対に離れないで下さい。・・・例えコンラッドが現れたとしても、です。」
「コンラッドが現れても・・・?」
「兎に角説明は後で。ちょっと飛ばすんで、しっかり掴まっててくださいよっ」
 「はっ」と言う掛け声と共に強く馬の腹が蹴られた。
 一気に周りの景色が後方へと流れていく。
(何があったんだろう・・・)
 ヨザックの様子からして尋常じゃないことが血盟城の中で起こっているのだろう。
 理由はわからない、がしかし。
(嫌な予感がする・・・)
 胸に下がる魔石を握り締め、ユーリはそっと瞼を下ろした。






 * * *






「言われたおきながら逸れるってどうよ・・・」
 ぽつんと一人佇んだ場所は、奥宮の最奥にある自室前。
 大きく重そうな扉の前でうーん、と唸り。
「・・・・・・どうしよ。とりあえず着替えるか?」
 扉を押し開き、するりと室内に入ると隣の寝室へ向かう。
 ふと、寝室への扉に手をかけてユーリは動きを止めた。

 中から人が居る気配がする。

「誰か居るのか?」
 そう声をかけ、ガチャリとノブを捻って。
 そこに居た人物に思わず目を見開く。
「・・・・・・ヴォルフ?」
 眩いばかりの黄金の髪を持つのは、この城には二人しか居ない。
 一人は今まさに恋愛旅行中の真っ只中なので、この城には居るはずがない。
 そしてその人物の血を色濃く引いている人物が、今まさに目の前に居た。
「ただいま、ヴォルフ。どうしたんだよ、そんなところに突っ立って。」
 そう言って近寄り、ヴォルフラムの肩に手を置いた。
 ――が。



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰だ?」



 振り返った彼から零れ落ちた言葉は、予想だにしないもの。
 ぱしりと払い落とされた手を呆然と見つめ、ユーリは驚愕に目を見開いたまま青い瞳を見返した。
「・・・ヴォル、フ?」
「どうやってこの城に侵入した?しかもこの奥宮まで。・・・・・・何者だ」
 何を言っているのか。
 ユーリは乾いた笑みを零し、何言ってるんだよ、と掠れた声で答える。
「おれだよ、渋谷有利。お前の婚約者だろ・・・?いや、その経緯は限りなく突発的なものだけど。・・・ってそうじゃなくっ!なぁっおれだよおれっどうしたんだよ一体!?」
「訳のわからないことを。衛兵は何をしているんだ?おいっ誰かこいつを城の外に放り出せ!」
「ちょっヴォルフラムっ!?・・・くっ、離せよ!!」
「紛い物の色を纏うなど言語道断。その色の意味を最早知らないわけではないだろうな?分からないと言うなら、その体に教えてやろうか?」
 廊下から駆け込んできた兵に両腕を抑えられ、ユーリは自分を見下すヴォルフラムを睨みつけた。
 何がどうなっているのか解らない。解らないが、だからと言ってこのまま放り出されるのも、拷問されるのもゴメンだ。
「紛い物じゃないっおれは正真正銘第27代魔王だ!双黒の魔王陛下サマだってんだっ!!」
「まだ言うか。まったく、双黒に憧れるのは構わないがそれで自分を魔王だと口にするのはよっぽどのバカだ。おい、さっさと外へ連れ出せ。」
「はっ!」
「離せっ・・・くそっコンラッドは何処だよ!コンラッドならおれをっ」
「ふん、誰が見ようとお前はただのバカだ。ただの平民が城になど侵入したなんて・・・門番は何をしているんだ?コンラートめ、指導が甘いんじゃないのか?」
 やれやれ、と首を振るヴォルフラムは、ユーリにはもう興味がないというように横をすり抜けていく。
 その、耳元に。
「・・・・・・こ」
「何?」
「こんのへなちょこ!誰が捕まってやるもんか!!」
 叫ぶと同時にぐっと身を低め、思い切り腕を振り払う。
 油断していたのか、兵の手はすんなりと離れた。
 その隙を逃さず、ユーリは一目散に寝室を飛び出し廊下へ駆け出す。
 だがそれも束の間、ふいに腕を力強い何かに掴まれ後ろへ捻り上げられた。
「いっ・・・」
「何の騒ぎだ。何故こんなところまで侵入者が?」
 その声はまさにユーリが待ち望んでいたもの。
 しかし、自分を見下ろす目は限りなく冷気を帯びて温かみの欠片もない。
「コ・・・ンラッド?」
「何故俺の名を?ヴォルフラム、知り合いか?」
「僕が知るわけないだろう。何故だか知らないが、僕の名もお前の名も知っている。・・・まぁ、知られていること自体おかしなことではないが・・・」
 そこで言葉を切ったヴォルフラムは、不機嫌に顰めていた顔を更に深めて。
「コンラートのことを"コンラッド"と呼ぶ人物は少ない。・・・お前こそ、知り合いじゃないのか?」
「いや、記憶にはないが。」
 冷やかな視線がユーリを射る。
 冗談だろ?と笑い飛ばしてやりたいのに、その瞳があまりにも冷たすぎてユーリは何も言えずに口を閉ざした。
 ただ、捻り上げられた腕の痛みだけがリアルで。
「・・・取り敢えず話を聞く理由がありそうだ。一先ずは地下室へ。」
「!」
 地下室――そこにあるのは一つだけ。
 ユーリは思い切り暴れまわり、腕に鈍い痛みが走ってもなお足掻いた。
「ばかっそれ以上動いたら腕が折れるぞ!」
「知るもんかっ!あんたがっ・・・あんたがおれを忘れてるのが悪いんだからな!コンラッドのバカっ!!」
「なっ・・・」
 ふ、と腕の拘束が緩まる。
 その隙にユーリはコンラッドから距離を取り、痛む腕を押さえて無人の廊下を駆け出した。
「待て!」
 後から追ってくるのは何人だろう。
 耳を澄ませ足音を聞き取りながら、ユーリはある一点を目指してがむしゃらに走った。

 何かが狂ってる。

 そんなことはもう当に気づいていた。
 けれど、それが何かも解らない。ヨザックも見当たらない。
 今この場には、自分を助けてくれる人が誰もいないのだ。
 いつもは守ってくれる人が、自分を忘れてしまっているから。
「コンラッドの、バカヤロー、っ・・・」
 目頭に込み上げるものをぎゅっと瞼を閉じることで押し込める。
 心臓破りのような階段を駆け上り、登りつめた先にある踊り場に辿り着くと一番奥の塀に手を付いた。
 いつの日か、夕方まで執務をしていたユーリを労わってコンラッドが連れて来てくれた場所。
 夕焼けを見る絶景の場所だと、ひっそり教えてくれた大切な場所。
 ここに来れば、もしかしたら思い出してくれるんじゃないかと淡い期待を持ちつつも、既に心はそんなことがあるはずないと諦めていた。
「追い詰めた・・・」
 呼吸一つ乱さず現れたコンラッドとヴォルフラム。
 そして、いつの間にここまで集まったのかと思うほどの兵たち。
 それらを見遣り、ユーリはそっと瞼を下ろす。


 どうしたら解ってもらえるだろう。
 どうしたら自分は魔王だと、あんたたちが忘れてるだけなんだと気づかせることが出来るだろう。
 ―――いや。


「・・・解っては、もらえないだろうなぁ・・・」
 自嘲染みた笑みを浮かべポツリと呟く。
 今ここに、味方はいない。
 ・・・そう、『いない』のだ。
「・・・はは、嫌になるなぁ・・・。おれ、何かしたかなぁ?みんなに、眞王に、何かしたかなぁ・・・」
「何を一人で言っている?さっさとこっちに来ないか。」
「言うことを聞けば手荒なことはしない。大人しくこっちへ・・・」
「来るな。」
 じり、と近寄ってくるコンラッドから逃げるようにユーリは塀に背を付ける。
 味方はいない。誰も・・・信用しちゃいけない。
 その事実に、改めて唇を噛み締める。
 今目の前に居る大切な人さえ信じられない自分が、悔しくもあり悲しくもあった。
「・・・・・・ごめん、ごめんな?あんたを信じられなくて、信じ通す事が出来なくて・・・」
「何を言って、」
「大好きだから。・・・好き、だから・・・」

 だから、ごめん。

 淡く微笑みを浮かべたユーリは、背後にある塀に手をかける。
「坊ちゃん!!」
「ヨザック・・・?」
「何してんだよっコンラッド!ボケッとしてないで早く止めろっ!!」
「お前まで何を・・・」
 訳の分からないと言う表情で、今まさに現れた親友をみやる。
 その態度に悪態をつき、それでもヨザックは叫んだ。
「あんたまで"あの気"に中てられたのか?!いいか、思い出せ。今の魔王陛下は誰だ?どんな容姿を持っている?」
「今更何、」
「坊ちゃんは、・・・あの方は、現眞魔国国王、第27代魔王ユーリ陛下だ。いい加減思い出しやがれっ!」
「なっ・・・・・・」
「いいんだ、ヨザック。・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう、疲れた」
「っ、陛下!!」
 腰の高さにある塀にひらりと飛び乗る。
 これが最後。
(長いようで、短かったなぁ・・・・・・)
 ヨザックの言葉に目を見開いているコンラッドを見つめる。
 忘れないように、目に焼き付けるように。


「バイバイ」


 ふっ・・・・・・と。
 引きずられるように後方へと体を倒す。
 そこにあるのは済んだ空気だけ。
 自分を受け止めるもののない、まっさらな風だけ―――。






「っ、ユーリ!!」






 浮遊感に包まれた只中で、聞こえた声は誰のものだったのだろう・・・?






 * * *






 意識を取り戻したとき、そこにはただ吸い込まれそうなほどの深い深い蒼があった。
「・・・ユーリ・・・」
「・・・・・・コ、ンラ・・・?」
「良かった・・・無事ですね」
「・・・っ離せ!!」
「ユーリっ」
 パシンッ!と高い音が響いた瞬間、ユーリの体はコンラッドの腕の中から抜け出し、城の壁ににじり寄っていた。
「おれは・・・おれは何もしないっ嘘も言ってないっ!誰も傷つけたりしないからっ・・・紛い物じゃ、ないから・・・っ」



 だから、おれを消さないで。
 ここにいるのに・・・ちゃんとここに存在するのに、その存在を消さないで。
 忘れてしまわないで・・・。



 ぽろぽろと零れ落ちる雫をそのままに、必死に訴える。
 そうすることでしか、己の身一つでしか彼を信じさせる術をもたないから。
 その頬に、そっとコンラッドの掌が触れた。
「ごめんね・・・。例え意思に反していたとしてもあなたを忘れるなんて・・・そのせいであなたの心をこんなにも傷つけ苦しめて・・・。」
「・・・コンラ、ッド・・・?」
「ちゃんと思い出した。・・・いや、覚えてるよ。あなたがこの国の王で、俺の何よりも大切な人だと。・・・・・・ユーリ」
 ぱちぱちと雫を弾く眦に唇を押し当て、玉を作った涙を舌先で掬い取りちゅっと吸い取る。
 そのまま逞しい腕の中に包み込まれた。
 震える腕が、コンラッドの存在を確かめるように彼の背中を這い回る。
「・・・コンラッド」
「うん・・・」
「・・・コンラッド・・・?」
「うん」
「・・・ちゃんと、解る?」
「解るよ。ユーリだ・・・俺の大切な、何よりも大切な人だ。」
「コンラッド・・・っコンラッド・・・!」
 子供のように泣きじゃくり、強く強く抱きしめる。
 もう二度とその温もりを忘れないように。
 何があっても、その存在を覚えておけるように。
 強く・・・。








「流石はウェラー卿ですね。解毒薬を投与する前に記憶を戻すとは。」
「ほんとですよねー。まーったく、こっちは冷や汗モノですよ。陛下ったらあの高さから飛び降りるんだから。」
 やれやれと鷹を竦めるヨザックは、しかし穏やかな表情を浮かべて。
「もう少し遅かったら取り返しがつかなかったな・・・」
「まったくです。・・・200年に一度飛来すると言う『ゲッセンの蝶』。その蝶が発する気に当たるとたちまち大切な者のことを忘れてしまう。前例なら気に当てられるのはせいぜい2,3名ほどのはずなのに、今年に限って飛来した蝶の数が多く、城の者の大半が気に当てられると言う始末。この私が彼の気に当てられなくてよかったと言うものです。」
 でなければ、ゲッセンの解毒薬を作ることが出来ず一番大切な者の命を失くしていたかもしれない。
 ひっそりと落とされた言の葉に、ヨザックもまた深く頷いた。
「でもま、結局のところあのウェラー卿には、何をやったって坊ちゃんのことを忘れさせておくことはできないってことですかねー。」
「それもまた一興。そういう者だからこそ、傍においておいて安心なのですよ。さぁ、ヨザック。まだ投与の施していないものがたくさん居ますよ。ちゃっちゃと働きなさい。」
「んもー、アニシナちゃんてば人使いが荒いんだからー。はいはいっと、行って来ますよー。」
 手渡された瓶を片手に、ヨザックは退出していく。
 その背を見送り、アニシナは再び窓の外に視線を投げた。
「・・・大切な者だからこそ、どんなに強力な力でも太刀打ちできないのですね。見事ですよ、コンラート」
 抱き合う二人を見下ろし、緩やかに目元を細めた。