Vergessenheit [フェアゲッセンハイト]
*side-C*



 蝶の飛来を聞いたのは、確か自軍の練兵をしているときだった。
「隊長、あそこに見覚えのない蝶がいるのですが・・・。」
「ん?・・・あぁ、これは確かにあまり見ない蝶だな。アニシナなら知っていそうだが・・・一体何処から飛んできたんだ?」
 はらりはらりと舞う蝶に目を細め、記憶の糸を辿る。
 どこかで見た覚えのある蝶だった。
 しかし、記憶の波は砂のように掌を滑り落ち、次第に曖昧になって行き。
「・・・あら?コンラート、兵の相手をしていたの?」
「ギーゼラ。偶には相手をしないと俺も腕が鈍るからね。それに彼を守る兵を鍛えるのも俺の仕事・・・」
 そこでふと、コンラッドは言葉を止める。
 不思議に思ったギーゼラが、「どうしたの?」と首を傾げていた。
 掴めそうで掴めない、白と黒の色と、その色の中に浮かぶ笑顔。



 彼は―――。



「彼・・・は、誰だ・・・?」
「コンラート?」
「・・・いや、済まない。何かを忘れているような気がして。大切な何かを・・・・・・」
 そうして記憶を探るもやはり何も出てこない。
「疲れているんじゃない?先ほど陛下がお戻りになったと眞王廟から使いが着たけれど、あなたは休んでいた方がいいわ。」
「陛下・・・が?」
「そうよ。グウェンダル閣下が城下に居るヨザックに迎えを頼んだらしいから、すぐにこちらにお越しになると思うし・・・」
 その時、コンラッドにはギーゼラの言葉がどこか遠くに聞こえていた。
 「陛下」と言う言葉に思い出せる人物が出てこなかったのだ。
 前王が自分の母親であるフォンシュピッツベーグ卿ツェツィーリエだと言うことは覚えている。
 が、代替わりした後の王の顔も、声も、どんなに思い出そうとしても何かが邪魔して思い出せない。
「コンラート、本当に大丈夫?顔色が悪いわ。」
「あ・・・あぁ・・・悪い、少し休ませてもらうよ・・・」
 利き手で額を押さえ、ゆっくりと息を吐き出してから顔を上げる。
 空に見える雲とその向こうに広がる色に何かを掻き立てられるが、首を振ってそれらを振り払った。
「後は自己鍛錬に励むように。俺は城内の見回りに行ってくる」
「はっ!」
 兵のリーダー役に指示を出し、コンラッドはその場を辞した。









 騒ぎが起こったのは、それから半刻ほど後。
 城内の見回りを終え、城下から齎された懸案事項に目を通すべく自室へと向かっていると、王の居室があるほうから数名の言い合う声が聞こえてきた。
 片方の声には聞き覚えがある。あれは末弟の声だ。
 また何かあったのかと苦笑を浮かべつつ、コンラッドは部屋の方へと足を向ける。
 と、居室の扉まで来るといきなり黒い固まりが飛び出してきた。
 侵入者かと思い瞬時にその人物の腕を掴み、体術を用いて後ろへ捻り上げる。
「何の騒ぎだ。何故こんなところまで侵入者が?」
「コ・・・ンラッド?」
 自分を呼ぶ声に、僅かに目を見開いてその掴んだ人物を見下ろす。
 そして、その出で立ちに微かに息を飲んだ。
 黒の衣服を纏い、漆黒の艶やかな髪に濡れた黒曜石のような瞳。
 双黒を持つ者。
 しかし、なぜかその事実を脳が否定する。
 『そんな者はいない』と、『これは偽者だ』と。
「何故俺の名を?ヴォルフラム、知り合いか?」
 その問いに末弟は不機嫌な表情で否定する。
 逆にコンラッドは問い返され、ひっそりと眉を寄せつつも首を振った。
「いや、記憶にはないが。」
 再び黒を纏う人物に目を向け、目を細める。
 笑おうにも笑えない表情を浮かべた彼は、どこか傷ついた瞳をしていた。
 心の奥底がズキンと痛む。
 その痛みを誤魔化すかのように掴んだ腕へ力を込め、視線を逸らした。
「・・・取り敢えず話を聞く理由がありそうだ。一先ずは地下室へ。」
 地下室――そこは罪人が留置されるべき場所。
 知ってか知らずか、コンラッドの言葉に反応した体は激しい抵抗を見せた。
 ミシリと嫌な感触がコンラッドの腕に伝わってくる。
 今ので肩を痛めたのは確かだろう。
「ばかっそれ以上動いたら腕が折れるぞ!」
「知るもんかっ!あんたがっ・・・あんたがおれを忘れてるのが悪いんだからな!コンラッドのバカっ!!」
「なっ・・・」
 バカ呼ばわりされて憤るとか、そんな感情が出てくる前に動揺が先立った。


 どうして彼は、自分が先ほどから胸に引っかかる思いを読めたのか。


 何かを忘れてる、それが彼に繋がることとは思えないが、しかし確かに自分は何か大切なことを忘れているような気がしていたのだ。
 その動揺が顕著に腕に伝わり、戒めていた腕がするりと抜ける。
 横をすり抜けて行った背を、どこかスローモーションのように見送り・・・。
「待て!」
 末弟の声に我に返る。
「何をしているっコンラート!」
「済まない・・・」
「追うぞっ」
「・・・」



 重い足を動かす。
 侵入者と捉える脳に反して、心は逃げる彼の背に痛みを覚えていた。
 ――どうして逃げるの?
 それは自分達が追うから・・・そんなことは解りきっている。
 それなのに、自分勝手な心は逃げる彼に悲鳴を上げていた。

 逃げないで、何もしないから。傷つけることはしないから――。

 しかし、それでも逃げ惑う彼はついに城の西にある塔の天辺で追い詰められた。
「追い詰めた・・・」
 ひっそりと零れ落ちた声は、自分でも驚くほどに安堵に満ち溢れて。
 だが不信感の募った対の瞳は探るようにコンラッドとヴォルフラムを見つめ、ふと眉尻を下げる。
「・・・解っては、もらえないだろうなぁ・・・」
 自嘲の笑みと同時に囁かれた言葉。
 意図を計りかねるその言葉にコンラッドはおろかヴォルフラムも首を捻った。
「・・・はは、嫌になるなぁ・・・。おれ、何かしたかなぁ?みんなに、眞王に、何かしたかなぁ・・・」
 涙の滲む声は、誰に問うでもなく風に溶ける。
「何を一人で言っている?さっさとこっちに来ないか。」
 苛立たしげなヴォルフラムの声に、更に彼の瞳が揺れた。
 その痛ましげな姿にコンラッドも刺激を与えないように言葉をかける。
「言うことを聞けば手荒なことはしない。大人しくこっちへ・・・」
 言って一歩、彼へと踏み出す。
「来るな。」
 逃げるように彼が塀へ背を預けた。
 その姿が、記憶の奥底にある記憶の片鱗と重なる。
 あれは何処でだったか・・・。
「・・・・・・ごめん、ごめんな?あんたを信じられなくて、信じ通す事が出来なくて・・・」
 記憶の海に沈みこみそうな思考を引き戻してくれたのは、彼の謝罪の声。
 どうして彼が謝らなければならないのかと、コンラッドは微妙に顔を顰めた。
「何を言って、」
「大好きだから。・・・好き、だから・・・」
 今度こそ、言葉が紡げずに両目を見開いた。
 思わぬ告白は、どこかすんなりと心に落ちて沁み込む。
 瞬間に湧き上がる歓喜と、戸惑い。
 ない交ぜになった気持ちに答えが出せずに居たコンラッドは、彼の儚げな笑みを見た瞬間呼吸が止まった。
 言葉にし難い焦燥感に覆われる。
 ――と。
「坊ちゃん!!」
「ヨザック・・・?」
 階段を駆け上がってくる足音と声に、その場に居た誰もが新たに現れた人物へ視線を向けた。
 彼にしては珍しく呼吸を乱し、その瞳は鋭く自分を射る。
「何してんだよっコンラッド!ボケッとしてないで早く止めろっ!!」
「お前まで何を・・・」
 何を言うのだろう。
 いや、何かを知っているのだろうか?
 心に蟠るこの気持ちの正体も、彼は知っているのだろうか。
 しかし、黙ったまま親友を見つめていると彼は悪態を付いてなおも言葉を発した。
「あんたまで"あの気"に中てられたのか?!いいか、思い出せ。今の魔王陛下は誰だ?どんな容姿を持っている?」
「今更何、」
 言っているんだと言おうとして、その言葉は続くヨザックの言葉に掻き消される。
「坊ちゃんは、・・・あの方は、現眞魔国国王、第27代魔王ユーリ陛下だ。いい加減思い出しやがれっ!」
「なっ・・・・・・」
 誰が魔王陛下だと?
 そう問い詰めようとして、割って入った声に口を閉ざす。
 ただ、驚きに表情を染めたまま。
「いいんだ、ヨザック。・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう、疲れた」
「っ、陛下!!」
 何をしようとしているのだろう。
 嫌な気配がひしひしと肌を侵す。
 ヨザックの緊迫した声がやけに鼓膜を揺さぶった。
 目の前の彼は身軽に塀に飛び乗ったまま、コンラッドを見つめてゆっくりと瞬いた。


「バイバイ」


 ふっと。
 黒が空に引き寄せられたように倒れる。
 一瞬の瞬き後、そこに彼の姿はない。



 重なる。
 あの時と、あの場面と重なる。
 あの、闘技場で・・・・・・。






「ユーリ!!」






 失いたくない。
 もう誰も、二度と大切な人を。
「ユーリっ!」
「コンラッドっ」
 剣をヨザックに投げ渡し、走って助走をつけ、その勢いを殺さず塀を飛び越すと落下していくユーリの体を空中で抱き寄せる。
 頭を抱え、懐に抱き込んで地面を見据えた。
 すぐに木々が近付く。
「っ・・・」
 片手でしっかりとユーリを支えると、枝葉に体を打ち付けつつ腕で太い枝を掴み勢いを殺していく。
 後は受身を取って勢いを殺し、数回転がることで衝撃を緩和する。
「っ、ユーリ・・・っ」
 ほっと息を吐くのも束の間、腕の中に囲った少年をそっと体から離し口元に手を宛がう。
 それから首筋に指を押し当て脈を取り、安定していることに胸を撫で下ろした。
「隊長っ!」
「大丈夫だ、ユーリにも怪我はない。」
「よ・・・良かった〜」
 気が抜けたのか、頭上でこちらを見下ろすヨザックの声が情けなく間延びして響いた。
「全く、坊ちゃんも心臓に悪いことをするんだからー。」
「どういうことだ、グリエ?何故奴をそこまで気遣う理由がある。」
「あーもー、いい加減記憶戻してくださいよ閣下・・・」
 ヨザックの声を最後に、頭上のやり取りはコンラッドの元まで届かなくなった。
 元より今のコンラッドには意識を失ったユーリのほうが気がかりで、一先ず痛む体を叱咤しながら木の幹に体を預ける。
 ふぅ、と深く息を吐き出して、漸くスッキリした頭と心に苦い笑みを浮かべた。
「ユーリのことを、忘れるなんて・・・」
 どんなにか、辛い思いをさせただろう。
 そっと頬を撫でて、汗で張り付いた前髪を掻き揚げ現れた額に唇を押し当てる。
「んっ・・・・・・」
「・・・ユーリ・・・」
「・・・・・・コ、ンラ・・・?」
 ぼんやりとした視線が自分に向けられる。
 状況が掴めないのか、暫くぼーっと空を見つめている瞳にコンラッドは目を細めて。
「良かった・・・無事ですね」
 再び頬をさらりと撫ぜた。
 が、突然ハッとしたように表情を強張らせたユーリは腕の中で暴れだした。
「・・・っ離せ!!」
「ユーリっ」
 押さえる間もなく腕の中をすり抜けた体は、少しでもコンラッドから離れようとするかのように己の背を城の壁に押し付けた。
 細い肩が小刻みに揺れ、恐怖と猜疑心に染まった瞳はコンラッドの瞳を睨みつける。
「おれは・・・おれは何もしないっ嘘も言ってないっ!誰も傷つけたりしないからっ・・・紛い物じゃ、ないから・・・っ」



 紛い物。
 恐らくそれは、ヴォルフラムに放たれた言葉だろう。
 彼も自分もユーリのことを忘れていたからそのような言葉を放ってしまったのだが、その事実を知らないユーリの心は酷く傷ついた。
「ユーリ・・・」
 どうしたら、信じてもらえるだろう?
 ここまで怯え、傷つけてしまった彼を癒すには、どうしたらいいのだろうか。
 大粒の涙を流し、その涙で濡れた頬が真っ白い。
 それは彼が己に恐怖を抱いているから。
 ユーリの叫びがコンラッドの心を抉り、その痛みがユーリの心の痛みなのだと思い知らされる。
 いや、それ以上の痛みをユーリは心に負ったのだ。
「ごめんね・・・。例え意思に反していたとしてもあなたを忘れるなんて・・・そのせいであなたの心をこんなにも傷つけ苦しめて・・・。」
 これ以上怯えさせないように、そっと優しく頬に触れる。
 零れそうなほど、ユーリの瞳が見開かれた。
「・・・コンラ、ッド・・・?」
 何かを確かめるように、それでもまだ信じ切れないという瞳が臆病に瞬く。
「ちゃんと思い出した。・・・いや、覚えてるよ。あなたがこの国の王で、俺の何よりも大切な人だと。・・・・・・ユーリ」
 玉を作るその雫に唇を寄せた。
 ピクン、とユーリの肩が震える。
 抵抗がないのを確かめてから、その背に腕を回して引き寄せた。
 数回ポンポンと背を撫でると、コンラッドの存在を確かめるようにユーリの腕が背中を彷徨い。
「・・・コンラッド」
「うん・・・」
「・・・コンラッド・・・?」
「うん」
「・・・ちゃんと、解る?」
 くぐもった声が、未だ怯えた声がコンラッドの耳に届いた。
 信じて欲しい。
 その思いを伝えるためにぎゅっと抱く腕に力を込める。
「解るよ。ユーリだ・・・俺の大切な、何よりも大切な人だ。」
「コンラッド・・・っコンラッド・・・!」
 しがみ付く様な仕草にコンラッドは強く瞼を閉じ。
 壊さないように、けれど強く、その存在を抱きしめた。
 何があっても忘れない。
 もう二度と傷つけることがないように・・・。






 * * *






「『ゲッセンの蝶』?」
「そう。俺も実際に見たのは今回が初めてなんですけどね。あの蝶は他の蝶と違って羽音から特殊な気を発するんです。それに中てられた者は大切な者の記憶を失くす。今年は例年に比べて春の訪れが早かったせいか、蝶の飛来も多かったようで」
 騒ぎが一段落し、漸く落ち着いた夜。
 コンラッドの私室へ赴いたユーリにコンラッドは何故城の者がユーリの存在を忘れていたか、事の詳細を教えた。
 コンラッドが入れてくれたホットココアの入ったカップを包み込むように持つユーリは、ベッドに一緒に座るコンラッドを仰ぎ見る。
 その瞳を見返し、ユーリの肩を抱き寄せたコンラッドはなおも言葉を続けた。
「あなたがこちらに来る少し前、俺は兵の稽古に付き合っていたんです。そこで兵の一人が見覚えのない蝶を見つけて俺も近寄ったのが悪かったんでしょうね・・・。」
 まさか自分までその気に中てられるとは。
 後悔の滲んだ息を吐き出したコンラッドの頬に、ユーリは頬を摺り寄せる。
「いいよ、思い出してくれたんだもん。本当は記憶を取り戻すにはアニシナさんが作った解毒薬を打たないといけないんだろ?でもあんたはそれを打つ前に思い出してくれた。それだけで十分だよ。」
「ユーリ・・・」
「それに、もう二度とおれを忘れないでくれればいい。流石にまたこんなことがあったら、おれ心臓持たないよ。」
 くすりと苦笑を浮かべるユーリの頬に手を宛がい、そっと上向かせて口付ける。
「・・・誓うよ。もう二度とあなたを忘れないと。」
「うん」
 暖かな陽だまりを、決して忘れはしない。
 そう、心の奥底でコンラッドは呟いた。