Dasein<ダーザイン> 5




「コンラッド!」
 駆け込んできた男にコンラッドは厳しい表情で先を促す。すでに防具で身を包んでいる自分を見れば、状況を把握するのは容易いはずだ。
「拙いことになったぜ。南からもう一匹厄介なのが現れた」
「今度は誰だ?」
「下っ端貴族のラデューター卿リブルダンだ。大シマロンが消えたと同時にすっかりぽんと姿を消したと思ったんだが、シマロンの残冬が残ってると知って舞い戻ってきたらしい」
 ラデューターと言う男は昔から人に論(あげつら)う性格の持ち主だった。そのせいか、下流貴族の出の割りに場内では顔が広く、コンラッドにも良く擦り寄ってきたことがある。思い出したコンラッドは嫌そうに顔を顰め、溜息を吐いた。
「奴自体はそれほど力があるわけではない。剣術も法術も並以下と見ていいだろう。だが数が増えるのは確かに厄介だな・・・。こちらは分散しているだけに人手が少ないんだ」
「嬢ちゃんに出てもらうか?」
「・・・抑えきれないだろう」
「だが他に捌ける人材はないぞ」
 ヨザックの言うとおり、すでに腕っ節のある人物たちは来たのザムルウェー側へと向かわせている。フレーゼは後発隊に組み込んでいたので今もまだアジトに残っているが、彼女の剣術はユーリよりも少々危うい。戦力に数えられるような力量はなかった。だが、その観察眼の鋭さゆえ指揮を執るに適していると見てコンラッドはザムルウェー側へ彼女を配置したのだが。
「悩んでる暇はない。嬢ちゃんは連れて行く」
「・・・わかった」
 コンラッドは低く唸るような声で答え、一切の迷いを捨てるように強く一歩を踏み出した。数々の死地を共に潜り抜けてきた愛馬の元へ行き、その鼻面を撫でる。
「今頃、ユーリはどうしてるかな・・・」
 まさかこれほど戦況が切迫しているとは思っていなかった。すぐに帰るはずだったコンラッドは、情けなくも胸元で揺れるペンダントを握り締め口元に寄せる。
「早くユーリに会いたい・・・。ノーカンティーも、同じ気持ちか?」
 髪の毛を食む愛馬は答えるように擦り寄ってきた。
 早く会いたい、会って抱きしめて、安心させるようにいくつものキスを送りたい。城を去る間際、行かないでほしいと言う寂しさの篭った視線が体に絡みついた。姿を見せてくれなくとも、本当はずっと見送ってくれていたのを知っている。だからこそ、一日でも早く帰ってあげたかった。
「・・・終わらせよう。こんなむだな戦など一日も早く終わらせて、ユーリの所に帰ろう、ノーカンティー」
 太陽の待つ、眞魔国に。



 土煙が辺りを覆う。
「フレーゼ!後ろに下がるんだっ」
「コンラート!」
 いくつもの叫び声と、怒号と、剣と剣が交わる音が飛び交う。ダルタの姿を探しながら合間に降りかかる剣を捻り伏せ、幾人もの人の血で剣が汚れた。敵も味方も入り混じり、一歩間違えば仲間さえ切り伏せそうになるのを寸でで避ける、そんな緊張感に包まれる最中。
「コンラッド!!」
「!?」
 幼馴染の叫び声に反応して一瞬辺りへ視線を彷徨わせる。そこで、背後にいたはずのフレーゼの存在がないことに気づいた。
「どこに、」

「っやめろ――!!」

 突然辺りに響き渡る、少し高めな少年の声。
「なっ・・・!?」
 その声を、コンラッドが聞き間違えるわけがなかった。たった数日会わないだけでこんなにも焦がれる存在。その人物の声を。だが、まさかと思う。彼がここにいるはずがないのだ。すべてをコンラッドとヨザックに一任し、コンラッドの帰りを城で待っていると言った彼が。
「コンラッドっ行け!」
「ヨザ?」
「このくらいの頭数なんざ、俺だけで十分よ。お前は譲ちゃんの所に行け」
 一瞬交わった視線が翳る。ヨザックは何かを知っている。――いや、初めから知っていたのだろう。
「っユーリ・・・!」
 人の合間を縫い、声の聞こえた場所まで走る。赤い閃光は法術によるものだろうか。いくつかの弓と剣戟が木霊した。
「・・・ど・・・して?どうして、あなたが・・・っ、なんで私を助けたの・・・!」
 フレーゼの震える声が聞こえる。嫌な予感に胸が締め付けられ、割れんばかりの痛みが頭を支配した。
「・・・だって、フレーゼ、さんが死んじゃったら、悲しむひとが、いるだろう?・・・あ、なたの・・・おとう・・・さん・・・とか」
「いや・・・っ、しっかりしてよ!」
 女性の腕の中、ぐったりと倒れ臥したその少年の髪は赤茶の色をしていた。それはよく城下などに忍びで降りる際に彼が染めていた色。息苦しいのか、ヒューっと咽喉が鳴っている。
「だ、いじょぶ。ちょっと、寝ればすぐ・・・元気になる・・・から・・・」
 約束、果たしにきたんだしとふうわり表情を綻ばせて。でも、と続けられた言葉は申し訳なさそうに沈んでいた。
「やっぱ、コンラッド、たちはあげられない・・・。おれにとって、大切な家族だ、から・・・。ごめんね、フレーゼ、さん・・・」
「ユーリ陛下っ!」
 きゅっと握りしめられた手が、急速に温度を無くしていく。その恐怖にフレーゼの表情が強張った。
「ごめ・・・ちょっと、休ませて・・・」
 ゆっくりと瞼を下ろし、体全体の力が抜け落ちていく。
「っユーリ!」
 金縛りが解けたように、コンラッドにしては珍しく足を縺れさせて駆け寄っていく。倒れたユーリの傍に膝を折り、触れるのを恐れるかのようにそろりと腕を伸ばして頬に触れた。冷たいその体温は、この先の悪夢をまるで予言するかのよう。
「ユーリっ!!」
 どれほど名前を呼んでも、その瞳が開かれることはなかった。



 広く濃紺の空に数え切れないほどの光の渦がある。強く己を主張して瞬くものがあれば、儚く微かに輝くものもある。まるで人のように、星たちの瞬きもそれぞれに違いがあってユーリは細く目を眇め微笑んだ。
「この星たちも、何億年も前の光が届いてるのかな」
 隣に佇む青年に囁くが、彼は何も言わず握り締める手に力を込めただけ。まるで子供のようなその仕草がおかしくて、ユーリは指先でとんとん、と握られた手の彼の甲を宥めるようにノックする。
「平和な世界って、手に入れるには難しいものだよなぁ。おれがこの世界に来てかれこれ三年くらい?・・・少しずつ、和解してきた国も増えてるけど、溝の深さって計り知れないよ」
「ユーリ・・・」
「おれの体が一体どちらの性質になるか分からないから、どうしても焦っちまう。焦ってもしょうがないって分かってるのに」
 ほんと、どうしようもない王様だよなと苦笑を零して。そんなユーリの表情に不安を覚え、コンラッドは握り締めていた手を離して長い腕の中にユーリの体を囲い込んだ。
まだまだ小さい体。これは魔族の血が現れているせいなのか、それとも童顔の父親に似たせいか。出来るならば前者であってほしい、そう願う事は恐らく罪。それでも考えたくないのだ。彼が隣にいるという今がなくなる未来(さき)を、考えたくない。
「でも、さ。もし平和な世界になって全てが落ち着いたら・・・そうなったら、コンラッドはずっとおれの傍にいてくれるか?」
「え・・・?」
「おれが魔王じゃなくなって、・・・そうだな、王制も廃止して民政に移管してさ、どこか静かな場所で暮らしたいって言ったら、一緒に来てくれる?」
まっすぐに見つめてくる瞳の中に、ただ純粋に驚いた表情を浮かべている自分の顔が映っている。恥ずかしさと僅かな不安を覗かせ、それでもひたすらに見つめ続ける瞳へほわりと微笑んだ。
「あなたは、とても欲がないね」
「えっ、そ、そうかな?おれとしては十分我が侭言ってるつもりなんだけど」
「足りないよ。――もっと言って。あなたの我が侭を叶えるのが、俺の幸せなんだから」
「幸せ・・・って、あんたのほうこそ欲なさ過ぎだろ」
くしゃりと表情を歪め、ユーリはぎゅっと強く抱きつく。
「今度こそ、ずっと傍にいろよ。そして二人で幸せになろう。今はまだ自分の幸せを考える暇なんてないけど、でもフレーゼさんのことや箱のことが済んだら絶対に。約束だぞ、コンラッド」
「えぇ。今度は何があろうとも、決してあなたの傍を離れない。ユーリの隣にいさせてください」
死ぬまでとは言わず、この命の灯が消えるその瞬間まで。そして来世までも永久に。
「ありがとう、コンラッド」
満足そうに微笑んで、ユーリは再びコンラッドの腕の中に擦り寄る。
それは星がきれいな夜。誓いを立てたのは、そう遠くない昔のこと。

「コンラート・・・」
「・・・フレーゼか」
 物思いに耽っていたコンラッドは背後から名を呼ばれ、現実へと引き戻された。辺りは薄暗くあと半刻もすれば日は完全に沈んでしまうだろう。
「彼の様子は・・・?」
「いや、まだ目は覚めないよ・・・」
 握り締めている手は、未だに冷たい。心臓は動いているし呼吸もしっかりしているから大丈夫だと村田は言っていたが、倒れて四日も目が覚めないでいるのに果たして大丈夫と言い切れるのだろうか。記憶の中にある手は、あんなにも暖かかったのに・・・。
「あなたも少し休んだほうがいいわ。顔色も悪いし、あまり寝ていないでしょう」
「俺は平気だよ。それより心配することが他にあるだろう?まだ全て終わったわけじゃないんだ」
「わかっているわ。今ダルタを探してもらっている最中よ。ザムルウェーは捕らえて別室に閉じ込めてある。あとはダルタさえ捕らえれば・・・」
 それで全てが終わり。・・・という訳には行かない。コンラッドは迷っていた。ダルタとザムルウェーを捕まえたあと、その二人をどう処分するべきか。そしてこの組織をどうするべきか。組織がシマロンの中枢ほど力があり数もいれば、幹部を据え指導者を立てればその後はどうにでもできる。しかし、ズィッヒャーハイツの集めた人員はあまりにも小さかった。コンラッドが後に呼び込んだ者たちを束ねたとて、一国を作るにはまだまだ小さい。だからと言って各領土に分散するのも、纏め上げていたズィッヒャーハイツがあの体では難しいだろう。
本当なら、もう全てを投げ出して故国へ帰りたかった。ユーリの容態が変わらぬうちに眞魔国へ帰り、ギーゼラに診せたかったのだ。だがそれをしないのはひとえにユーリのため。ユーリが目覚め、自分のためにこの地を投げ出して眞魔国へ帰ったと知れば怒り悲しむのは容易に想像できる。だから、今はこうして胸が締め付けられる思いをしつつもこの人間の地に留まっていた。
「コンラッド、猊下がお呼びだぜ。それと嬢ちゃん、あんたも」
「あとにしてくれ」
「離れたくないのは分かるが大事な話だ。坊ちゃんは俺が見てるから行ってこい」
ずかずかと入ってきたヨザックは強引にコンラッドの腕を掴んで立ち上がらせる。
「っ、ヨザ!」
「坊ちゃんがどうして無謀にもこの地に来たのか、知りたくないのか?」
「知ってるならお前がここで話せ」
「残念ながらそれは俺の役目じゃない。それにこの土地の今後の在り方にも関わる話だからな。総指揮官のお前がいなくちゃ意味がないんだ」
「! それってどういうっ」
「行けば分かる。ほら、さっさと聞いてこい」
フレーゼの食いつきには目もくれず、ヨザックは部屋の入り口へコンラッドを引き摺って行き、押し出した。そこまでされれば、コンラッドとて行くしかない。コンラッドとフレーゼは部屋を後にして会議室として使っている広間へと向かった。反勢力がアジトとして使っている地下洞窟は、自然で出来た城そのものと言える。恐らく、その昔戦が今よりも激しかった時代に何者かがこの洞窟を見つけ、防空壕の役割として活用したのだろう。洞窟には小さな部屋が六つと大きな広間が二つ、ここにはあった。その内の一つに入ると、座るにちょうどいい石に腰掛けた村田がコンラッドにひらりと手を振る。
「やぁ、来たね」
「追い出されましたので」
「渋谷の様子は?」
壁から突き出している岩の一つにフレーゼを座らせ、コンラッドにも座るよう促して村田は尋ねた、
「相変わらず眠ったままです。・・・本当に大丈夫なんでしょうか?」
「いつもと同じ、魔力の使い過ぎによるものだからね。証拠にどこにも怪我はなかっただろう?」
「ですが、もう四日も経つんです。以前初めて魔力を使ったときでも三日。それ以後はせいぜい一日だ。それなのに・・・」
これほど長く眠りにつくなんて、と呟く。酷く憔悴した表情のコンラッドを横目に、村田は溜息を吐いた。
「そりゃあ、全ての攻撃を防いだ挙句周りに倒れてる兵の怪我を法石に囲まれたあの場で癒すという、自殺紛いの魔力を使ったんだ。一週間程度目を覚まさなくても当たり前だよ」
「それは、そうですが・・・」
「それより僕たちにはやらなければならないことが山積みだろう。さて、そこでフレーゼさんに一つ聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
攻撃的な視線と言葉に村田は苦笑を浮かべて、「信用されたないなぁ」と零した。それもそうだろう、何せ説明が「眞魔国でユーリの次に偉い人」と言う言い回しだけなのだから。だがすぐに真剣な瞳でフレーゼを見るその雰囲気は、確かに覇気があった。
「今、残党の大将であるダルタを捜索中だと聞いた。もし彼を捕らえたなら、君はどうするんだい?」
「どうする、とは?」
「殺すのかどうするのかってことだよ」
「!」
 大きく目を見開いたフレーゼは、言葉に詰まり視線を彷徨わせた。おや?と首を傾げた村田は、そんなフレーゼを訝しんだ後コンラッドに視線を移す。
「まさか考えていなかったわけじゃないだろう?」
「・・・ええ」
「コンラート!?」
 驚きに見開かれるフレーゼに、コンラッドは視線を落とす。
「捕まえたから『はい、お終い』と言うわけにはいかないさ。君たちが彼らをどのように処罰するのか。殺してそれで満足するか、それとも生を与えて今までの過ちを正させるか。決めるのはウェラー卿でも僕でもない。これはシマロンの犠牲者になった、大シマロンに報復を果たした君たちの役目だ」
「私たち・・・」
「ですが、彼らを生かすにしろ殺すにしろ、問題はあります。大シマロンの跡地であるこの国をどうするか。誰が上に立ち導いていくか。残念ながら、俺が最も導くに相応しいと思う人物は病に臥せり立つには厳しい」
「確かに、一番はズィッヒャーハイツさんが纏めるのが一番いいんだけどね・・・」
 しかし、と一つ息をつき村田はフレーゼに向き直った。ヨザックの情報が正しければまだ道はある。
「でも、グリエから齎された情報ではダルタとザムルウェーは大シマロンと小シマロンの国境沿いにある小さな村の出身だと聞いた。それもとても貧しいね。彼らが本当に心から忠誠を誓っているかどうか、怪しいところだよ」
 もし説得して彼らがこちらの仲間に引き入れることが出来れば、彼らを殺すと言う選択肢はなくなる。そして力量、人望共にあるだろう彼らを引き入れれば、必ず心強い仲間となるだろう。
「渋谷の教訓を生かす絶好の機会だと思わないかい、ウェラー卿?」
「そうですね。話す機会は捕らえた後ならばいくらでもある。まずはそこから一つずつ問題を解決していこう」
 時間が掛かるのは最初から分かっていたこと。一国を纏め上げるなどすぐに出来るわけではないのだ。
「よし、それじゃぁもう一つフレーゼさんにお願いしよう。僕を君のお父さん、ズィッヒャーハイツさんに合わせてくれないかな。話をしてみたいんだ」
「父に?」
「うん」
「だったら、おれも一緒に連れて行ってくれないか?」
 不意に脇から挟まれた声に、その場にいた全員が声のした方へ首を巡らせる。そこにいたのは、ヨザックに支えられながら立っているユーリ本人だった。
「ユーリっ」
「心配かけてごめんな、コンラッド。でもほら、この通り。元気だから大丈夫」
「大丈夫なわけがないでしょう!?どうして起きて来たりしたんですかっ!・・・・っヨザ!!」
「しょうがないでしょ、坊ちゃんが来たいって言ったんだから」
 すいと肩を竦めたヨザックは、少しだけ心配そうにユーリを見下ろす。だが、取り敢えず中へ、と促されコンラッドに抱き上げられて、ユーリは恥ずかしそうに身を縮こませた。
「それじゃ、役者も揃ったことだしフレーゼさんお願いできる?」
「それは構わないけれど・・・、ユーリ、さん、は・・・平気なの?」
「ユーリでいいって。うん、おれは全然平気。寝すぎて体凝っちゃってるしさ。それに一度はズィッヒャーハイツさんと話してみたいって思ってたんだ。・・・例のこともあるしね」
「例のこととは?」
 耳聡いコンラッドがぴくりと眉を動かし、腕の中のユーリを見下ろす。しかしユーリはそちらのことなど目もくれず、フレーゼのいる方を見つめた。
「それについては、父もあなたと話をしたいと言っていたわ。是非会って話しをしてみて。例のことについては、父から話があると思う」
「そっか、うん、分かった。ありがとう、フレーゼさん」
「じゃぁ、渋谷の腹ごしらえが終わったらみんなでお邪魔しよう。渋谷、お腹空いただろう?グリエが準備してるから食べるといい」
「やったーっ!さんきゅ、ヨザック!」
「いいえー。すぐにお持ちしますから、部屋でいい子で待っててくださいね」
 くしゃりと頭を撫でて、ヨザックはすぐに部屋を出て行った。それを合図とするかのように全員が立ち上がり、話し合いはこれで解散となる。
「ウェラー卿、くれぐれも渋谷を頼むよ。苛めないようにね?」
 悪戯っぽく目を細めて笑った村田は、ユーリの部屋があるほうとは逆へと去っていった。フレーゼも父の元へ戻ると言ってその場を後にする。残されたコンラッドとユーリは、ユーリが寝ていた部屋へと戻り休息を取ることにした。
「どこか、具合が悪いところはありませんか?」
「うん、ないよ。ぴんぴんしてる。あんたこそ怪我してない?大丈夫?」
 部屋に戻りすぐさまベッドに横にさせると、サイドに腰を下ろしユーリの頬を量の掌で包みこんだ。体温は未だに低く顔色も青白い。こんな状態で平気だと言われても信じられるわけがなかった。
「どうしてこんな無茶を・・・っ」
 眞魔国内ならいざ知らず、ユーリにとっては最も危険な人間の土地に供も連れず単身乗り込んでくるなど本当に自殺行為に他ならない。腹の底では怒りが沸々と湧き上がるのに、それでも無事で良かったと言う安堵と会って抱き会える喜びのほうが勝っていた。
「・・・実はさ、おれがフレーゼさんに会いにいった夜に、フレーゼさんにお願いをしたんだ」
「それはさっき言っていた事ですか」
 うん、と頷き、ユーリは瞼を下ろす。そしてあの夜自分が何のためにフレーゼの元へ赴いたか、そして今無茶をしてでもこの地へ来たかを話した。
「本当はおれ宛に友好条約の返答を白鳩便で飛ばしてもらう予定だったんだけど、ズィッヒャーハイツさんの容態もあまりよくなさそうだし、元々すぐに来るつもりではいたからさ」
話が終わるまで黙って聞いていたコンラッドは、はぁ、と重い溜息をついた後ユーリから手を離し。
「・・・俺が全てを終わらせて帰るまで、どうして待てなかったんですか」
 一段と低められた声が、怒りを呑み込んで抑揚なく響く。ユーリは瞳を閉じたままコンラッドの言葉に苦笑った。その笑みには、僅かな自嘲も込められている。
「これを言うとあんたに信用されてないって思われそうで嫌だし、自分の情けなさを余計アピールするみたいなんだけど」
 のろのろと腕を持ち上げ、顔の前で交互して瞼の上に宛がう。こうすれば相手に自分の表情は見えないし、見ることもない。――ユーリ自身コンラッドの表情を見ることは出来ないのだが。
「あんたが城から去るとき、立っていられなかった。何度も大丈夫だって自分に言い聞かせて、平気なふりしようとしたけどダメだったんだ。あんたが城の中にいないって思った瞬間、恐怖でどうにかなりそうだった・・・」
 あれほどコンラッドは自分に言ってくれた。『必ず帰って来るから待っていて』と。それなのに自分の体は自分の意思に反してコンラッドを求める。心で思う以上に体は素直だった。
「ごめんな、コンラッド。ちゃんと待ってられなくて」
「ユーリ・・・」
 きゅっと噛み締める唇に、コンラッドは指を這わせる。それから顔を覆う腕をそっと外し、閉ざされている瞼に口付けた。
「目を開けて、ユーリ」
「・・・だめ。今は見せたくない」
「どうして?」
「どうしても・・・」
 子供のような言い訳に思わず笑みが零れる。
「それじゃぁ、力尽くで開けさせようか」
「え?・・・んっ!」
 唐突に唇を塞がれ、生暖かいコンラッドの舌が生き物のように咥内へ侵入し、思うままに貪られる。
「ふ・・・ぁ、ん・・・っ」
 舌と舌が絡まり合うたび、淫猥な水音が辺りに響く。洞窟なだけあって音は反響し、更にユーリの羞恥心を煽った。もちろん扉などありはしないので、誰かが通ればすぐに知れ渡るだろう。
「んっ、ン、は・・・、コン、っ」
 呼吸が追いつかない。息苦しさにユーリはパタパタとコンラッドの胸を叩いた。そこで漸く唇を離し、呼吸を乱すユーリをじっと見下ろす。
「ユーリ」
「は・・・コン、ラッド・・・」
 薄っすらと瞼を持ち上げると、ぼんやりとした影が覆いかぶさっている。聖砂国で視力が低下したときとまったく同じ症状。コンラッドが傍にいる安堵感から元に戻っているかと淡い期待を抱いていたが、やはり未だ治ってはいなかった。
「やっぱり、まだか・・・」
 悔しさに強く目を擦る。そうすれば見えるようになるわけでもないのに、ユーリは何度も強く瞼を擦った。
「ダメだよ、ほら、擦りすぎて赤くなってる」
「だってっ」
「擦ったからと言って目が見えるようになるわけじゃない。それに、ユーリは俺が見えているでしょう?」
 目で見えなくとも、その目はちゃんと自分を見つめてくれている。だから何も不安がることはないのだと。
「・・・何で、ばれて」
「さっき広間で抱き上げたとき目を合わせようとしなかったしね。それにフレーゼを見るときも視線が泳いでた。だからなんとなく分かったんです」
「必死に隠して、おれバカみたいじゃん・・・」
 しょんぼりと肩を落とすユーリに微笑を浮かべ、顕わになっている額にちゅっとキスを落とす。それから瞼、頬、鼻梁、唇と順にキスの雨を降らせて行き、首筋を少し強めに吸い上げて鎖骨をちろりと舐める。
「ぁっ、・・・だ、めだって、外に漏れちゃ・・・っ」
「大丈夫。この部屋は他の部屋より奥にあるし、誰も近寄らない。我慢しなくていいよ」
「んくっ」
 ぷちん、とボタンを外され、外気に晒された胸の突起を口に含む。手はすでにズボンにかかり、ベルトを外して前を寛げた。
「あっ、あ、ぁんっ」
 するりと忍び込んできた手が直接欲芯に触れてきて、思わず甘ったるい声が出てしまった。慌てて口を覆い声を抑えようとしたが、与えられる愛撫はあまりにも的確にユーリのイイところばかりを攻め立てるためにそれも叶わない。
「ダメっ、だ、めぇ・・・っ」
「こんなに涙を零してるのに、ここでやめてもいいの?」
 きゅっと亀頭を握り締め、意地悪く鈴口をぐりぐりと擦り上げた。
「あぁっ」
 一際高い声を上げてユーリは呆気なく吐精を果たした。荒い呼吸音を響かせコンラッドの肩に額を擦りつけて、甘えるように抱きつく。
「ユーリ、俺の上に上がれる?」
「え・・・?」
「おいで」
 誘われるまま体を起こし、コンラッドの腕に引き寄せられて膝立ちになる。そのまま腰を下ろすと、お尻に固い感触が当たった。
「っ、コンラッド・・・!?」
「もう少しだけ腰を上げてて。・・・そう、いい子だ」
 ユーリの声などお構いなしにシャツを肌蹴させ、ズボンを引き抜く。そうして硬い蕾を指の腹で撫でつけ、ひくりと蠢くのに先ほどユーリが放った精液を掬い取ってそこに塗り込む。ぴくんと背中を震わせたユーリは、縋るようにコンラッドの肩に手を置いた。。
「あぁ・・・、ふ、あんん・・・っ」
ゆっくりと丹念に解されたそこは、あっという間にコンラッドを受け入れるには十分なほどとろとろに蕩けきった。指三本を易々と銜え込み、出し入れされるたびに逃すまいと締め付ける。掴まっていたはずの手はコンラッドの首に回され、肩に口を押し当ててユーリは必死に快感の波を手放そうとするが、それを許さず更に弱い場所をしつこく攻めた。
「あんっ、ぁ、も・・・コンラ、ッド・・・!」
「何?」
「い・・・れて、おねが・・・っコンラッド、の、」
 淫らに腰を揺らし、しとどに塗れた欲芯をコンラッドの腹に擦りつける。未だ着衣を乱していないコンラッドの白いシャツは、ユーリの愛液でベトベトだった。
「少しだけ、待ってて」
 さらりとユーリの髪を撫で、コンラッドは塗れたシャツを器用に脱ぎ捨てる。膝に力の入らないユーリの体を片手で持ち上げ、己の前を寛げてすでに熱く猛った欲芯を取り出した。
「ふ・・・っ」
 蕾に擦り付けられ、鼻に掛かった甘い声が漏れる。
「そのままゆっくり、腰を下ろして」
「・・・んっ、は・・・ぁ、あぁ・・・っ!」
「っ・・・」
 あまりの狭さにすぐにでも持って行かれそうになる。深呼吸して自身を落ち着かせ、ユーリの呼吸に合わせて少しずつゆっくりと熱の塊を沈めて行った。
「んっ・・・入っ、た・・・?」
「入ったよ」
 舌足らずに聞いてくるユーリは、すでに理性を飛ばしていてとろんとした眼差しを向けてくる。前戯の最中の羞恥に顔を赤らめるユーリも可愛いが、熱に翻弄され恍惚とした表情で舌足らずに話すユーリも愛しい。
「ちゃんと掴まってて。――動くよ」
「んぁっ!」
 言うや否や、思い切り下から腰を突き入れた。大きく体を震わせ、背中を反らしたユーリを更に追い詰めるように激しく揺さぶる。
「あ、あっ、く・・・っん、」
「ユーリ・・・っ」
 声なんて抑える余裕などない。引っ切り無しに上がる嬌声と、結合部から響く水音が更なる興奮を煽る。まるで飢えた獣のようだと頭の片隅で思いながらも、貪欲な体はユーリの体を貪った。互いが互いに絶頂が近づき、よりいっそう挿入のスピードが早くなる。
「い・・・ぁ、イ、ク・・・っ、コンラッ・・・ド・・・っ」
「いいよ、一緒に・・・っ」
 二人の間で擦れ、濡れそぼったユーリの欲芯を包みこみ、律動に合わせて擦りあげた。
「あ、やぁっ・・・ん、くっ、ぁ、あぁ――っ!!」
「っく・・・」
 びくびくと痙攣する肢体を強く抱きしめ、ユーリの絶頂と共にコンラッドも中へ欲望を注ぎ込む。
「あ・・・ん・・・っ」
「っ・・・、ユーリ、大丈夫?」
 数回秘部を収縮させて快楽に浸っていたユーリに、コンラッドは気遣わしげに問いかける。ずるりと引いていく感触に咽喉を仰け反らせたユーリは、短く息を吐き出して小さく頷く。
「う、ん・・・、大丈夫・・・」
 ぐったりと全体重をコンラッドに預けたユーリの声は掠れていた。未だ熱の持った体を簡素なベッドに横たえ、汗で張り付いた前髪を払い除けてやるとふと瞼を持ち上げたユーリがほわりと微笑む。
「珍しいな」
「え?」
 意図が掴めず問い返すと、更に笑みを深めたユーリが腕を伸ばしてくる。情事の後に決まって彼は温もりを欲しがった。これはその合図。コンラッドはユーリの隣に横になり、おいでと言ってその腕を引き寄せる。
「めずらしいって、何がですか」
 腕の中にすっぽりと収まった少年に再度問うと、ユーリはちょっとだけ顔を持ち上げ視線を彷徨わせた。頬を掌で包みこむと彷徨っていた視線が安心したように綻び閉じられる。
「だってさ、いつもはおれから求めない限り抱いてくれなかっただろ?今日はあんたから求めてきたし、しかも少し強引に仕掛けてきたから珍しいと思ったんだよ」
「嫌でしたか・・・?」
「全然。どっちかって言うと嬉しかった。いつもおればっかがっついてるみたいで、引かれてるんじゃないかって思ってたから」
「まさか!そんなことあるわけがない」
 コンラッドとて許されるならば一日中ユーリを独占したいと思っているし、毎晩のように漆黒の瞳を羞恥と快楽に染めたいと思っているのだから。だがそうしないのは、ユーリの仕事が肉体的にも精神的にも負担の掛かるものだからだ。執務に差し支えては困る。何より体だけを求めていると思われたくないというのもあり、ユーリには必要以上に求めなかった。
「じゃぁ、何で今日は求めてきたんだ?」
「目的はあなたの目を開けさせることだったんですが・・・、俺も所詮は若造なんですよ。あなたの傍にいなかった数日で充電が切れたんです」
「充電・・・って、おれはあんたの充電器なんだ?」
「えぇ。あなたがいないと、俺は動けないからね」
 ちゅ、と頭の頂に口付けし、コンラッドは絹糸のような髪に顔を埋める。
「さぁ、もう少し眠って」
「あれ、でもヨザックがご飯持ってきてくれるって・・・」
「起きたときにもう一度持ってこさせますよ。ほら、顔色が悪いから」
「ん・・・」
 おやすみ、と言ってよりいっそう深く抱き込む。
「・・・そう言えばさ、コンラッドって、絶対不思議な力持ってるよな」
「そんな力、持ってませんよ」
「そうかな・・・?だって、いつも魔力使い過ぎて体がきついとき、あんたが抱きしめてくれると楽になるんだ。ふっと体が軽くなる」
「それがユーリのためになるなら、俺は嬉しいな」
「ホントだよ。あんた、絶対不思議な力あるんだから・・・」
 おれの言うこと信じてないだろ・・・?と小さな声が呟き、後に続いたのは心地よい寝息だった。深い眠りに入ったのを見計らって衣服を身に付け、ユーリにも着せる。
「終わりましたかねー?」
「ヨザック」
 入り口を出て広間の方へ向かうと薄闇の中に人のシルエットが浮かび上がった。馴染んだ男の声に肩の力を抜き、近づいていく。
「坊ちゃんの様子は?」
「今は眠ってる。体のほうもだいぶ回復はしているみたいだが、顔色は相変わらずまだ青白い。・・・ところで、お前に聞きたいことがあったんだ」
 そこで声のトーンをがらりと変えたコンラッドが、ヨザックに詰め寄る。嫌な予感がして一歩後ずさったヨザックは、しかしがっちりと肩を掴まれて逃げ道を失った。
「な、なんだよそんな改まって」
「別に改まっちゃいないさ。素直に教えてくれさえすれば危害を加えるつもりもない」
「危害を加えるつもりはあるんだな・・・」
 思わず肩を落としそうになったところで「茶々を入れるな」と脅された。
「ユーリの手紙には何て書いてあったんだ?」
「は?何だ、そのことかよ」
 きょとんと目を瞬かせ、それから呆れたように溜息をついた後どこからかあの水色の便箋を取り出した。それをコンラッドに向け差し出す。
「やるよ。元々これは俺宛というより、あんた宛に近いからな」
「どういう意味だ?」
「いいからそれ持ってさっさと坊ちゃんとこ戻れよ。どうせ一時たりとも離れたくないんだろうからな」
 二刻後にご飯を持って行ってやるよと言って、ヨザックはひらりと手を振り去って行ってしまった。
「一体何なんだ・・・」
 極僅かの蝋燭が点在する廊下で読むのは些か難だ。ヨザックの言うとおり部屋に戻り、早速中身を確認した。そこに書かれていたのは短い言葉。
「『一日でも早くの帰還を願ってる。どうか無事に帰ってきて欲しい』、か」
 だいぶ眞魔国語を覚えたユーリの少しだけ癖のある字。少年王の切なる願いの込められた文の後に、もう一行短く記された言葉がある。
 『どうか、コンラッドを助けて』
 一体彼は、この手紙をどんな気持ちで綴ったのだろうか。平和主義を掲げる第一人者として絶対に曲げられない信条が彼にはある。それは、例えどんなに悪行を行った者でも、死を与える権利は誰にもないということ。そして、どんなことがあろうとも戦を止めるということ。戦が起これば人が死ぬ。人が死ねば怨みが生まれる。怨みが生まれればまた戦が起こる。その悪循環を断ち切るために、ユーリはどんなことがあろうとも死を与えず戦を止めることを誓った。だからこそ今回のフレーゼの頼みも引き受けたのだろう。それは容易に想像つくのだが。
「あなたが我慢してまで行うことでもないのに・・・」
 ユーリが我慢してまで、この戦を止める意味合いはないのではないか。そう考えてしまう自分は愚かだろうか。非道だろうか。だが、ユーリが全てであるコンラッドにはどうでもよかったのだ。フレーゼのこともこの地のことも。
「本当に、あなたは優しすぎる。その優しさで自分の命を犠牲にしてしまうのではないかと不安になるほど」
 そうならないために、自分は動いているのだけれど。
 すやすやと寝息を立てるユーリを見下ろし、コンラッドはどうしようもない暗闇を歩いているような錯覚を覚えた。言い知れぬ不安に呼応してか、痛み出した左腕を鷲掴んで虚空を睨み付ける。
「守ってみせる。何があろうとも、どんな敵からも」
 シーツの上に投げ出されている手を取り、握り締めて己の額に押し当てた。


* * *


 こっちよ、と誘われるままユーリとコンラッド、村田にヨザックは街の中を横切る。向かう先はフレーゼの生まれ育った生家。カヤンの中心街から少し南に下った場所に、周りから見ると二回りほど大きな家が立ちふさがった。
「ここがフレーゼさんのお家なんだね。ずいぶんと立派だなぁ」
「そうね、一応この街の領主も勤めているからそれなりには大きいかもしれないわね」
「領主も?」
 驚きに声を上げたユーリは、次の村田の言葉に更に目を見開いた。
「領主ってことは、大シマロンでは中流、もしくは上流貴族に属するんじゃないのかい?」
「えっ!・・・そ、そっか、そうだよな。それなのに反乱軍の親玉って・・・どういう事?」
「上流貴族になれば王に拝謁する機会も増える。ベラールに仕えていたほとんどの者は地位や名声を欲する人間ばかりでしたが、ズィッヒャーハイツはそんなものよりも武力で目立つ人物だったようです。今では領主という立場に収まっていますが、昔は武将として戦場を駆け巡っていたと聞いています。まぁ、二十年前の戦争のときにはすでに退位したあとのようですが」
「父上は三十年前に軍属を退き、この街の領主に治まったの」
 さぁ、中へどうぞ。
 フレーゼは扉を大きく開き、ユーリたちを中へと誘った。目の前にある螺旋階段を昇り、日当たりのいい東の奥にある部屋へと進む。
「父上、フレーゼです」
「・・・入りなさい」
 失礼します、と言ってフレーゼが入る。後に続いてユーリと村田、コンラッドが入室した。
「父上、体の具合は・・・?」
「今日はだいぶ加減がいいんだ。それより、ウェラー卿が尋ねてくるとは珍しい。そちらの方々はどなたかな?」
 柔らかい日差しに照らされたベッドの上、白髪の老人が横になってこちらを見つめている。人間である彼は、恐らく白寿を過ぎたくらいの年齢だろうか。フレーゼとはずいぶんと年が離れすぎている気がする。
「こちらの方は我が眞魔国の、」
「コンラッド」
 こんなところでまで同じ科白を言わせないで欲しい。しょうがないなぁと苦笑して、ユーリは手探りでベッドに近づく。
「初めまして、ズィッヒャーハイツさん。おれ、渋谷有利って言います。コンラッドはおれの名付け親で」
「ほぉ、ウェラー卿の名付け子とは」
 柔らかく微笑んだズィッヒャーハイツは重い体を起き上がらせ、ベッドヘッドに背中を預けた。風の動きで手を伸ばされたのに気づき、瞼を閉じる。頬に触れた指先はコンラッドよりもかさついていたけれど、やはり剣胼胝に硬くなった皮膚は心地よかった。
「ユーリ君、と言ったかな」
「ユーリでいいです」
「ふふ、ではユーリ殿。あなたは目が見えない様だね」
 頬から瞼に移動した指が、そっと撫でる。そのしぐさ一つ一つが慈愛に満ちていて、その昔武将として地を駆けていたとは思えなかった。だが僅かに声を低めた瞬間、ズィッヒャーハイツと言う人物の頭角が垣間見えた気がした。
「そちらの眼鏡をかけた君もそうだが、二人とも魔族だね」
「そうです。でも、おれもこいつもコンラッドと同じ混血だけど」
 やはり反乱軍を纏めている彼でも魔族を恐れたりするのだろうか。ふと過ぎった考えに思わず表情を曇らせる。
「別に私は魔族だからと避難するつもりはないよ。大シマロンの輩ならば畏怖の目で見るかもしれんがな。そもそも魔族を恐れていたらウェラー卿やグリエ殿をこの組織に入れるわけがない」
「シマロン軍には本当に容赦がないですけどね」
 コンラッドは肩を竦め、最初にこの地に訪れたときのことを思い出す。予め手紙は出していたのだが、何せシマロンの服で来たため街の入り口に着いた途端襲われる羽目になったのだ。
「その節は申し訳なかった。あの頃はみな神経質になっていたのでな」
 肩を揺らして笑ったズィッヒャーハイツは次の瞬間激しく咳き込んだ。
「父上っ」
「・・・大丈夫だ、フレーゼ。少し興奮しすぎたみたいだ」
 息苦しそうに呼吸を繰り返し、すぐに体をベッドの上に寝かせる。それかrまお数回咳き込むズィッヒャーハイツは、こちらから見ても痛々しい姿だ。
「一体、どこが悪いんですか?」
「肺と心臓をやられてね。医者からは匙を投げられてしまうほど手の施しようがないらしい」
 まるで人事のように話す父親に、フレーゼが唇を噛み締めた。命の期限が迫っているというからには末期の症状なのだろう。何かを考えるように視線を落としていたユーリは、ぽつりと呟く。
「・・・それって、癒しの力でも無理かな」
「ユーリっ何を言って・・・!」
「それ、どういう事?」
「おれ、混血だけど魔力が使えるんだ。もしかしたらズィッヒャーハイツさんの病気、治せるかもしれない」
「無茶です、まだ目が覚めて二日しか経っていないんですよ!?」
 コンラッドは思わずユーリの肩に掴み掛かる。視力の弱っているユーリは困ったように空中を見つめ、肩に置かれているコンラッドの手を撫でた。
「でもこの人が治ればこの地を任せられる。違うか?」
「それでもっ、・・・それでも俺は、あなたの命をかけるくらいならこの地を見捨てる」
「大袈裟だよ、コンラッド」
 幼子の癇癪をあやすように穏やかな声が諭す。だが、コンラッドは引かなかった。
「どこが大袈裟だというんです?あなたは一時仮死状態にまで陥ったんですよ!?あれほど人間の地で魔力は使わないで欲しいと言ってきたのに・・・っ」
 魔力を使い過ぎた結果どうなるか、コンラッドは嫌というほど知っている。ユーリもそれは理解していた。それでも、今このとき使わなかったら何のための力なのだろう?
「助けられるかもしれない命が目の前にあるんだ。おれの力で助けられるかもしれないのに、それを見て見ぬふりなんて出来ない」
「ユーリ!」
「ウェラー卿、少し落ち着きなよ。・・・渋谷、僕もどちらかというとウェラー卿の意見に賛成だ。けれど君の言い分も理解できる。まずは本人の意思を確認するのが先じゃない?」
 そこで全員の視線がズィッヒャーハイツへと向けられる。当の本人は思わぬ出来事に目を瞠ったまま固まっていた。
「ズィッヒャーハイツさん、もしその病が治って、この地に新生国が建ち上がったとき主となって導いてくれますか?」
「私に、王になれと言うか」
「一国の王をそんな易々と決めることは出来ない。ただ、安定するまでの一時をあなたが支えてくれるか。それが知りたいんです」
 誰もがズィッヒャーハイツを認め、信用している。それはコンラッドやヨザックの情報、街の人たちの話を聞けば分かることだ。何より、ズィッヒャーハイツの人と”ナリ”は彼自身の話を聞く限り村田から見ても信用にたる人物だと取れた。
「すでにフレーゼさんから話は聞いてると思うけれど、眞魔国・・・の、王様はさ、この地に新しい国が出来たとき友好条約を結びたいって思ってるんだ」
「そのことはフレーゼから確かに聞いている。だが君は、魔族の王と近しい仲なのか?」
「まぁね」
「ユーリ、さん?」
「ね、フレーゼさん。あの紙ある?」
 戸惑いがちに名を呼ぶフレーゼに、ユーリはウインクを一つしてそう言った。はじめ首を傾げた彼女は、すぐに思い至ったように頷き部屋を出て行く。すぐに戻ってきた彼女の手には一枚の紙が持たれていた。
「これは強制ではありません。ズィッヒャーハイツさんとフレーゼさんの二人が、魔族と友好を築いて行きたいと望んでくれたときに署名してくれても構わないんです」
 広げられた一番下に、新生国と眞魔国国王が署名する欄がある。その双方どちらとも未だ書名が書かれてはいない。
「それと、ズィッヒャーハイツさんを治すから交換条件で、って言うのでもないから。今回の派遣も特例だし。ただ、どんな些細なことでもいい、困ったことがあったなら力になると魔王陛下は言ってるんだ。それを理解した上で、答えを出して欲しい」
「・・・すぐに出せる答えではないな」
 じっと紙面を見ていたズィッヒャーハイツがぽつりと呟く。
「わかっています」
「国を築くのには、膨大な時間が掛かるのだぞ」
「それも知ってます。出来る限りのお手伝いをしたいんです」
 平和な世界を望むのは、ユーリだけではないはずだ。眞魔国の仲間たちはもちろん人間の国でだって、ヒスクライフ氏やその他周辺諸国の民も望んでいる。その想いが伝染するかのように辺りに広がって行けば、いつかは人間と魔族の溝も埋まって行くのではないかとユーリは信じていた。
「ズィッヒャーハイツさん、手を出して?」
「ユーリ!」
「コンラッド、邪魔するなら外に出てて」
 強くはない、けれどはっきりとした拒絶にコンラッドは押し黙るほかなかった。
「・・・大丈夫だよ。コンラッドがいるんだから」
 そんなものは気休めにしかならない。村田なら魔力を増量する力を持っているだろうが、コンラッドにはそんな力はないのだ。ましてや、今まで剣でしか戦うことの出来なかった自分が魔王であるユーリを助けられるような力を持っているなんて想像も出来ない。それでもせめて、彼の言うとおり支えになることができrなら。魔力を使うことによる疲労を、いくらかでも緩和できるのであればと思い、ユーリの肩に触れた。
 ごつごつとした節くれだった手を握り締め、ゆっくりと目を閉じる。意識をズィッヒャーハイツに合わせると、握り締めた手が淡く光りだした。
「・・・これが、魔力・・・」
「人間の地では魔力に従う要素が少ないから、使うのは危険なんだけどね」
「さっきコンラートが言っていた、命をかけるとは魔力の使い過ぎる時のことを言っているのよね?でも、この間みたいな使い方なら兎も角このくらいなら大丈夫ではないの?」
 不思議でならないと頻(しき)りに首を傾げるフレーゼに、村田は「まぁね」と答えた。
「でも、状況や条件が悪ければ些細な力でも命取りになる。普通の魔族なら、今の時点で癒しの力さえ使えやしないよ」
 そう、それが出来てしまうのはユーリだけ。彼が魔王だからこそ、そして何より溢れるくらいの魔力を持っているからこそ出来ることだ。
「しかし、ズィッヒャーハイツさんの病気はここ何年かでかかった病じゃないだろう。長い間体に巣食っていた病を浄化するのは並大抵の力じゃ出来ない。かなりの負担を伴うだろうね」
 すでに光は収束し始めている。治療はもう少しで終わるだろう。そうこうしているうちに淡い光が弾けるように霧散した。
「ユーリっ!」
「・・・だ・・・いじょうぶ・・・。おれより、ズィッヒャーハイツさんは・・・」
 光が消えたと同時にコンラッドの腕の中に倒れ込んだユーリは、青白い顔で問いかけた。すぐに父親の元へ走り寄ったフレーゼが顔を覗き込む。
「父上、お加減は・・・?」
「あ、あぁ・・・あの付き纏うようなだるさや鈍い痛みがなくなったよ」
 両手を握ったり開いたりを繰り返して、それからゆっくりと立ち上がったズィッヒャーハイツは自身の体を見渡した。先ほどまでの苦しさが嘘のようにすっきりとしている。
「信じられない・・・夢のようだ」
「そ・・・か、よかった。これで安心・・・かな・・・」
 ほぅ、と深く息を吐き出したユーリは、疲れたように目を閉じた。慌てたようにコンラッドが唇に耳を近づける。
「・・・死んでないから、心配するな・・・っての」
「陛下・・・」
「陛下言うなって、名付け親」
 くすりと笑ったユーリは、コンラッドの胸に頬を摺り寄せる。そのとき、かちゃりと音がして廊下からヨザックが足早に入ってきた。
「猊下、これを」
「白鳩便?」
 渡された紙を見て村田がヨザックへ問う。しかし、ヨザックは頷くだけで何も言おうとはしない。訝しみながらも促されるまま手紙を開き、中身に目を通す。
「・・・ウルリーケからか」
 表情を厳しいものに変え、村田は食い入るように何度も手紙の内容を読み返す。しかし、読み返したところで変わるわけもなく。
「村田・・・?」
 弱々しく呼びかけるユーリに、村田は暗い表情で視線を返した。手紙の内容は、まさに最低最悪の内容と言える。
「渋谷、僕たちはすぐにでも帰らなければならないことになった」
「眞魔国で、何かあったのか・・・?」
 ぴりぴりとした緊張感に知らず表情が曇る。きゅっとコンラッドの裾を握り締めると、コンラッドの手が優しく手の甲を撫でてくれた。
「・・・例の封印が、切れ掛かっている」
「え・・・!?」
「手紙はウルリーケからだった。最悪なことに、四つとも全て切れ掛かっている」
「そんな・・・」
 村田が言っているのは禁忌の箱のことだ。コンラッドが大シマロンから命を掛けて集めてくれていた箱は、その後大切に眞王廟で保管されていた。しかし、その箱の封印が切れ掛かっていると言う。今のままでは恐らく時間の問題だろうと村田は答えた。
「少しずつその兆しはあったんだ。けれどウルリーケがどうにか抑えてくれていた。でも、もうそれも持ちそうにない」
 一刻の猶予を争うのだ。漸く魔族と人間との溝が埋まりつつある今、禁忌の箱が開いてしまえば全てが水の泡と消えてしまう。それを抑えるためには、ユーリの力が必要だった。
「猊下、今のユーリにそれは・・・」
「世界の人々の命が掛かってるんだ。それに、今すぐ戻って必要とするわけじゃない。状況を見てみないと分からないけれど、まだ何かしら方法があるかもしれないからね」
「しかし、」
 まだ何かを言おうとしたコンラッドの服を、ユーリが強く引く。
「言っただろ、あんたがいれば回復が早いって。今だって眠らなくたってだいぶ楽になったんだから」
「ユーリ・・・」
「それにちょっとずつ視力も戻ってきてる。ほら、村田がそっちでヨザックだろ、で、フレーゼさんでズィッヒャーハイツさん。合ってる?」
「ホントに?」
「疑りぶかいなぁ」
 回復が早いのは本当だ。ユーリは自身の目の前に手を翳し、ひらりと振る。光と影の切り替えに目を眇めた。
「今回は早かったな。やっぱりコンラッドがいるせいか?」
「ユーリ、ふざけないで。・・・俺は、一緒に戻ることは出来ません。この地が無事に国として確立し、安定を取り戻したのを見届けてからでなければ戻れない。・・・それまで、待っていてくれますか」
 いつもよりも冷たい頬に掌を宛がい、引き寄せて額を合わせる。ぼやけて見える漆黒の瞳が閉ざされ、すぐ近くでユーリの声が響いた。
「大丈夫。今度はちゃんと待ってるよ。・・・待っていられる。コンラッドのこと信じてるから。もう、迷うことなんて何もない」
 開かれた瞳の奥、まっすぐに見据えて来る光は揺ぎ無い強さを持っている。その輝く強い瞳にコンラッドは微笑んだ。
「必ず帰ります、あなたの元へ。――愛してる、ユーリ」
「うん、おれも」
 強い抱擁にユーリは目を閉じ体の細胞一つ一つに覚えさせた。コンラッドの温もり、声、香り、その全てを。
 例え何があろうとも、彼の全てを覚えていれば大丈夫、そう思って。



 別れの朝。
 港まで見送りに来たコンラッドとヨザック、フレーゼは迎えに来た船に乗り込むまで他愛ない話を語り合った。
「サイズモア艦長が一緒なら安心だ。あまり無理をしないでくださいね」
「グウェンダルとギュンターが優秀だからね、そこは大丈夫」
 そっちこそ無理すんなよと言って、コンラッドの胸をとんと叩いた。くしゃりと笑顔を歪めてコンラッドは頷く。
「もちろん。なるべく手紙を送りますから」
「待ってるよ」
 握り締めた手を解き、村田に促されて戦艦へ乗り込む。船のデッキから港を見下ろすと、心配そうなコンラッドの顔が見えた。思ったよりも視力の回復が早く、今でははっきりと周りが認識できる。
「手紙着たら、すぐに返事送るからなっ!」
 そういって大きく手を振ると、コンラッドも頷いて振り返して来た。なんだか可笑しくてユーリはくすくすと笑い声を上げる。隣の村田も「じゃあねー」とひらひら手を振っていた。これから戻ったらきっとこうして笑っていられることもなくなるかもしれない。それでも、大丈夫。自分には支えがある。
 船が出港して、暫くしてもユーリはデッキで港を見つめていた。完全に見えなくなった頃艦内に入り、村田がいる部屋へ向かう。
「やぁ、やっと戻ってきたね」
「手紙ではどんな状況なんだ?そんなに切迫してるのか」
 腰を落ち着けたユーリは、がらりと雰囲気を変えて村田に問いかけた。これこそがまさに王としての威厳なのだろう。村田は一つ頷き、先日送られてきた手紙をユーリに手渡した。すぐに目を通したユーリも、やはり村田同様表情を険しくする。
「・・・おれの魔力で抑えきれるかな」
「わからない・・・。けど、きっと君にしか止められない。出来れば一つ一つにもう一度封印を施したいところだけれど、ウルリーケの見解が正しければそれも無理だろう」
 八方塞とはこのことをいうのかもしれない。やはりどうとっても状況を確認しない限り対処を考えることは難しいようだ。
「とにかく、早く戻ってグウェンダルたちと話をしないと。ウルリーケにはもう少し辛抱してもらおう」
「そうだね」
 村田は頷き、部屋に戻り休息を取ろうと席を立った。ユーリも立ち上がり隣の部屋にあるベッドに向かう。正直コンラッドと別れてから体が辛くなりつつあった。
「正直すぎだろ、おれの体・・・」
 ベッドに倒れこんで一人ごちる。帰ってくる声などもちろんなく、言葉は空しく室内に溶けて消えた。今はとにかく体を休めることだけ考えようと、瞼を下ろす。



 同時刻、船を見送ったコンラッドはヨザックとフレーゼを共に連れ、アジトへと帰還する最中だった。
「っ・・・」
「コンラッド?・・・どうしたんだ」
「いや」
 隠すように左腕を右腕で庇う。時折訪れる痛みにコンラッドは眉間の皺を深くした。
「左腕、痛むの?」
「少しな・・・」
 心なしかユーリが居なくなった途端痛みが増した気がする。本来の自分の腕ではない左腕の縫い合わされている部分を指先でなぞると、ぴりぴりとした痛みが走った。
「どうして、今更・・・」
「もしかして、例の手紙を関連があるんじゃないのか」
 ヨザックもコンラッド同様厳しい顔つきで睨むように左腕を見つめている。考えたくはないことだが、しかしコンラッドの腕は『風の終わり』の鍵である。最悪のことも起こりえるだろう。
「酷く痛むのか?」
「いや、今の所断続的であるからそれほど酷くはないが。平気だ、すぐに収まるさ」
 隣を併走するヨザックに笑いかけ、それから腹を蹴り上げスピードを上げる。今考えなければならないのは眞魔国のことよりも新生国のこと。自身のことなど更に後だ。
「・・・・・・」
 だが、鋭い痛みを齎す腕に嫌な予感がしてならない。コンラッドは気づかれない程度に左腕をぎゅっと握り締めた。
「どうか無事で――」
 付き纏う不安を振り切るかのように、コンラッドは一度だけきつく目を閉じ、開いたときには目の前を見据えていた。

 この不安が、どうか当たらなければいいと願いながら。